昭和43年03月23日 春季霊祭
(頭切れ)
片島せんと言う先生がおられます。奥平野というところに。この方はもう無学に近い女の先生でしたけれども、大変お徳を受けられて沢山の人が助かった。この方は神様からいちいちお伝えがある。ある時に御神前で天地の親神様、世界中の氏子に話がしてみたい、と神様が仰った。してみると神様にもやっぱりお声があると言う事が分かりますですね。世界中の氏子に、しかも可愛うて可愛うてたまらない一人一人の氏子に話しをして、そういう事では幸せにはならんぞ。
こういう心掛けにならにゃあいけんぞ、と言うて一人一人に話しかけて、一人一人を幸せにしてやりたいというのが親神様の願いである。ですからその世界中の氏子に話がしてみたいと仰せられる御神意がわかるような気が致しますね。けれども氏子に聞く耳がないからせんに及ばんと仰った。氏子に聞く耳がない。聞く耳を持たないからせんに及ばんのだと。言うて聞かせてあるんだ。もう四神様は、信心するものはね。夢でもあだやおろかには見るな。
この辺になって参りますと、信心のいわゆる聞く耳を持たない者でも、その気になっておれば神の声を夢を通して聞くことが出来るね。又は心掛けておけばはやり歌の文句の中からでも神がものを言うて聞かせるとも仰るね。子供の場合には泣き声の中からでも、神様のものを聞き悟る事が出来る程に、神様はいつも私共に働きかけておって下さるのでございますけれども、さぁそこんところがうかつにしておるとね。それをよう聞かんのでございます。たえず心を神様に向けておかなければならん。
そこでまあ問題は、私共でも神様からいちいちお伝えが頂けれるおかげを頂きたいのでございますけれどもね。我情我欲がいっぱいで神様のお声もよう聞きません。ここでは私が聞いた、私が見たというても皆さんがあんまり信用せんからね。他でおかげを受けられた先生の話をしたのですね。四神様もそう仰っておられますね。いわゆる片島せん先生もそういう風に神様のお心を伝えておられます。
小倉の初代桂松平先生も、大変お徳を受けられた。神様の世界を行き来される程にお徳を受けられたね。もう段々おかげを受けられまして、先生が御本部の御造営を思いたたれた。そのためにご自身が木曽山中に、木曽桧の買い付けにおいでられた。久留米の初代石橋先生、安武松太郎先生、などと言う様な、大変お徳を受けられた先生方をお供に、木曽の山中に入られたのでございます。
ところがねあちらで、その大変な雪だったそうでございますが、体を悪くされた。大体が痔が悪かった。その痔がもういよいよひどくなって、もう身動きもできないというほどの重体に陥られた。とうとう担架に乗せて御本部まで帰ってみえられた。その事を小倉の奥様へ電報でいち早く知らせられる。奥様もびっくりして取るものも取り合えずに、金次郎というお子様伴うて、御本部へおいでられた。
ところがです、大変な御重体の桂先生の御様子、勿論心配なさいまして一生懸命御取次を頂いて、お願いをなさった。ところがその夜からご同道になったところの金次郎様が急に発熱をなさる。たいへんなまあ病気である。もうあっという間に亡くなられたというのですから、随分ひどいことだったんでしょうね。ところがそのさしもひどかった桂松平先生の病気が、もうぬぐったように良くなったね。
神様に御神意を伺われるとね。桂松平にはまあだ、いわゆる木曽山中から御用材を出して、そして御造営をしなければならんという大願がある。大きな願いが立てられてある。その願いが成就しない途中にあるので、桂松平の身代わりに、金次郎様をひきとったという神様のお伝えがあった。皆さんが御本部へお参りになりますと、丁度今の新会堂の裏の辺りの山のところに、小さいこんもらっとしたお墓でございますけれども、もう絶えず、お参りの絶えないというお墓が、その金次郎様のお墓でございます。
時の教監であった佐藤宿老ね。詩を送っておられます。その詩がその石碑の裏に書いてある。「桂みつゆく わこごの御霊」と書いてある。その裏にね。「いとし子が 親に代わりて行きにけり 真の道を辿り辿りて」ともう一つ書いてある。その詩の詩の途中が失念致しましたけれどもですね、親に代わりて真の道を辿り辿っていったとこう言われる。ね、その金次郎様の一年祭が、御本部で執り行われた。
もう当時先生は大変な、御用がございましたから、もうそれこそ御広前に、御本部に教庁においでられるで、なかなかその時間がない。もちろんお祭は本部の偉い先生方に祭員をお願いされてから、お供え物もちゃんと整えられて、そしてお願いをなさった。ところがそう言う様な教務の御用があるもんですから、ついそのお祭りに遅れられた。もうお祭りが済んでおった。奥様も伴われてから、奥城に出られますと、桂先生が御祈念をなさりながら(涙)一生懸命お話をしておられる。
はあそうじゃったかそうじゃったかっちって言いおりなさる。ああすまんじゃったすまんじゃった。今度帰ったらね、すぐまたお祭しなおすからと言うて言うておられる。で奥様が不思議に思うてから聞かれた。今日はね御本部の偉い先生方にお祭を仕えて頂いて本当に有り難かったけれども、お父様のお姿がみえなかったから寂しかったと仰る。(感涙)そうか、そうかそうかと言うておられたわけなんですね。
こういうふうにですね、御徳を頂かれた先生方の実際の御霊様と、もうそのあちらの世界とこちらの世界を、この通うておられるね。ような方達のお話を聞かせて頂きますとです成程、成程と合点がいくのでございますね。私はいつも不思議に思うのですけれども、御霊様のお祭の時に非常に、あの祖先賛詞がもう終わっておるのにですね。私共はもう祖先賛詞があがっとる内にあげなきゃ気色の悪かです、本当言うたらね。それに祖先賛詞があがる、すすむ間誰もあげてがなか。
秋永先生にあのどうしたらその、誰も玉串のあげてがなかがと言うて、まあ言うたことです。もし皆様がですね御霊様がここに、例えば皆様方あんた方の先祖のね。又はかわいい子供ね。本当に大事な親お子様たちのですよ、御霊様の姿がここにありありと見えて、はあ、家のはどこに来とるじゃろうかと探しよる。こちらも一生懸命、沢山の中ですけど探しおる。本当にそう言う様なもし気持ちであったならとても押しのけちからでも、私は御霊様の前に早う玉串の、仲取り持つと仰るのでございますから。
神様との交流する一つの手立てだとさえ仰るのでございますからね。とても早うご霊前に出らなければおられないのが普通ではなかろうかと思うのでございますけれども、さあ、そこが皆さん半信半疑ね。そりゃあもうあの人たちがあげなさらにゃあ気の毒か。というところもありましょうけれども、気の毒かだんじゃあない、もしそこにです、目の当たりに自分の父が、母がまたは愛しの子供がね。
私共を今か今かとこうやって待っておる姿をもし思い浮かべてご覧なさい、とても本当にスムーズにもっともっと、私は実感のこもった玉串が奉れるのじゃなかろうかとこう思うね。私共が日々信心の稽古をさせて頂く。なるほど信心とは、信ずる心をいよいよ強くしていく事であるね。そこでここではその信ずる心の頂けれるために、神様が今一生懸命骨折って、おられるという感じ。それこそ神様が信じてくれ信じてくれと言うておられるようである。これでも信じないのか、これでも信じないのかね。
信じてくれなければね、お前達が幸せになれんのだ。いやお前達が幸せになれなきゃいいけれども、私自身も幸せになれんのだと言うておられるのですね。氏子の苦しみは神の苦しみと仰せられるね。そこのところを宗教的な言葉でいうと悟りと言う。悟りが開けるね。なるほどなと合点がいく。なるほど神様御実在まします。霊魂の世界がある魂の世界がある。こりゃあただ事ではないぞ、これはこの世にある間に、いよいよ魂の清まりを願わなければならないぞと。
これはもうおかげじゃない御利益じゃない。本気で魂の清まりを願わせて頂いて、我情が取れ我欲が取れ、真の道におる者の有り難さ、信心を頂いておる者のいよいよ有り難さというものを自分が身に受けて、その自分の受けておるその、おかげを実証に、証にね。世の中に難儀な氏子のある、たくさんな難儀な人たちに、この実証を持ってお話しをしていかなければならない。まず我が身におかげを受けて、このようにも間違いのない神様、このような深い愛情を持っておいでられる神様。
私共が例えば御霊の世界に入る。確かに清まったところの御霊、お徳を受けられたところの御霊。今日の御祝詞を奏上させて頂きますので、昨日私はそれの下書きを御結界でさせて頂いておった午後から。頭が悪いですからなかなか良い、その神様をうならせる様な名文句が出てこない。それでもまあ一生懸命その頭を絞ってから、まぁあのような祝詞ができたね。その中に私は思う。これは私の信念だ。私の信念を持って書いた。だから現在合楽にご縁を頂いておる皆さん達の信心の方向というものがね。
現在はこういう方向を向かっておるというのであるから、やはりそれに繋がるところの御霊様もその方向になってもらわなければならないね。そこで一番新しい今の合楽の信心で一番新しい信心ね。それは生神金光大神取、次の道の御ひれいをお互いの生活の現場において、または自分の心の上に家庭の上に、現していこうというのであるね。その為にはいよいよ自己を肯定する事のない信心。難しいね。自己を肯定する自己を肯定しないでの生き方。同時にそれは否定でもないね。
そういう生き方。御霊様全部にもその事に、そうそう言う事になってもらわなければならないね。そげなこつ言うたっちゃ自分だんもう仏教で奉ってもろうとるとじゃけんで、金光様のお世話にならんでよかと言った様な霊も、やっぱあるんです。そして実際助かっていないのですね。一杯の欲しいけれども水も与えられないでね。それこそ難儀の御霊が、自分はもう仏教でしてもろうとるとじゃけんで、と言う様な強情なことを言う。本当な事を聞かせて頂いたら、はあここに本当な道があったんだ。
ここに本当に救われる御霊に氏子人間御霊、人間も御霊も一緒に救われていくところの道があるんだ。そこに金光大神取次の道を、知らしてもらいその御ひれいに浴する時に、私共には力はなかっても、御ひれいの御徳に浴しておかげを頂いていく事が出来る。そのおかげが現場において現われてくる。そこには自己を肯定しない、そげなこっじゃあないね。そこんところを教祖様はこれで済んだとは思わないと仰る。現在自分の信心がもうこれで良いという時には、もう自分を肯定しておる。
それもそうじゃろうばってん、私共間違いない信心を頂いておる。だからおかげも頂きよる。そりゃあねもう本当じゃあなかってさえおかげを頂いておるのであるからね。しかし本当の事を少し握っておれば、やはりおかげを頂くはずなんだ。けれどももっともっと本当があるのだとね。もっともっと本当の生き方があるのだというのでございますから、自分を肯定しておったんではできません。自己を肯定しないでの生き方、同時にそれはまた、否定でもない。
そういういわば今合楽で一番言われておる、ま言うならば一番まあ先端をいっておる信心。今椛目の信心の先端をいっておる人は、今そこんところに本気で取り組んでおられると私は思うんですね。ですから真心素直に受け得しめ給えと言う所になってくるわけなんですね。真心素直でなからなければです、ああそうですかと肯定ができない。うなずけない。合点がいかないね。そこからですいや応なしに神様の働きの間違いなさを体験する事がいよいよできるね。
結局神様は信じて欲しいね。信じてくれただ信じてくれ信じてくれ、私を信じなさい信じなさいとだけは仰っておられないね。信じなければおられないどういう疑い深い人でも、その気になってみておると成程神様じゃなあ、成程神様生きてござるんじゃなあと言う様な事がです、いうなら私の信心を通して皆さんに伝わっていく事ができる。それがここでは私は御理解だと思うんです。どんなに先生が頭良かったっちゃあ、もうあげん朝から晩までずうっとお話をしござるが、あのお話がどこからでてくるじゃろうか。
もうそれこそ無限大に無尽蔵にでてくる。しかもそれが私自身もそのお話に酔うておる。あたしもその話を頂いておる。そして私もそのお話によって一日が支えられ、一日がおかげになっていっておる。のでございますね。先ほど秋永先生がお話にもなっておられましたようにね。ここ2、3日の御理解を頂いても、なるほどこれは神、人間の知恵ではできることじゃあないという事なんですね。
こりゃやっぱり神様というのがあって、神様のいわゆる英知という、神の知恵である。神の知恵を持って、みんなにそれを頂かせる。そしてみんなになるほどと合点をいかせて下さる。そしてそのような生き方では徳も受けられんぞ、幸せにもなれんぞ、御霊になっても、本当の安らかな御霊になることはできんのぞというて教えて下さってあるのであるね。私はもう昨日の御理解なんか頂いとって思いました。本当にもう毎日毎日が、ああ信心はもうここに極まったという感じがするんですよ。
昨日一昨日の朝の御理解、朝参りと言う事がいかにお道の信心では大事なことかと言う事を頂くね。朝参りと言う事がですね、もうそれこそもう私共には気が付かない、もう一切のことの上に霊妙不可思議な働きがあると言う事を、あの朝の御理解を頂いたらです、信じん訳にはいけんような感じがする。ところがその中に私の失敗談が、私の失敗談からその御理解が出たんです。ですからはあ素晴らしい御理解だった、もういっぺん頂こうというてみんながテープの前にいったけれども入ってなかった。
私がそん時感じたですね。もう私には失敗などというのはもう不釣合いになっておる。だから、先生があげな事で失敗しなさったと言った様な事は、もうみんなにも聞かせてもならん、恥ずかしか。神様の方が恥ずかしか。そんな感じが致しました。もうそのくらいに高く評価されとるなあと自分で思うた。うん。そのときのまあ良かとこだけを、まあさわりのところを話すならね、朝鮮人参の御神眼を頂いたね。
朝参りと言う事がですね、この朝鮮人参のような、もういうならもっともっと大変なね、あれはもう万病にきくという霊草でございます。霊薬ね。もうこの朝鮮人参はもうどのような病気にでも効くと。しかも霊妙不可思議な働きがあるといわれておるように、お道の信心の朝参りというのは、そういう不思議な働きがあるんですね。皆さんだから朝参りなさらにゃいかんのですね。
とても遠かけんでけんというのは、もう自己肯定しとるのですよ。うんとても熊本へんから毎日日参できるもんかいっちいうたら、やっぱでけんね。だから結局自己を肯定しないでのあり方、これで済んだとは思わない、月に何べん参りおる、もうこれで済んだと思うとる。これではなくてです、これで済んだとは思いませんというものがいつもなからなきゃあいけないね。今まで出来なかった人がみんなできよるじゃないか。しかも楽しゅうできる。しかも有り難うできよるね。
朝がもう合楽の御祈念は長か。もう帰るときにはもう8時にもなる。そうで無かなら参るばってんと言いよった人が参ってこんじゃった。帰りおんなさった。それは言い訳にすぎなかったね。神様の前には言い訳がたたん。できんならできんで詫びにゃいかん。おかげを受けてるんだからね。そしてどうか肯定しないでの生き方というのは、そういう信心が、もう自分の信心、自分の物になってしまうところまでのね、信心をさせてもらう時に、これはもう朝参りの徳にもなっていくだろうとこう思うね。
朝鮮人参とは朝参りと書いてあるでしょうがね。ちょうの朝一番下のじんが参るね。せんという字は新鮮なんだ。朝のもうそれこそ朝、朝露を踏んでお参りをしてくる、あの新鮮な心がそれなんだね。人参というのは人と書いてある。にん人が書いてあるね。私共がと言う事なんだ。私共が金光様の御信心をさせてもろうて、本当に金光様の信心は朝参りから、教祖の神様の御信心二代様、三代様、四代様と続けられておる、その朝参り朝の御祈念というものが、3時50分のお出ましから4時の御祈念が始まる。
そういう例えば金光様の御信心の、いわば手振り足振りを見習わせて頂くね。そしてそこを修行させて頂く。そこから不思議に湧いて来る所の有り難いものがですね、朝参りがこの様に有り難いものであろうかと言う事になってくる。私自身がそれを感じておる。どうして18年間も気が付かなかっただろうか、自分を肯定してるね。もう自分な朝五時の御祈念でも十分のごと思うておる。それがある事からヒントを頂いて、自分の心がいわば肯定しないでのあり方になっておった時にですそれが入ってきた。
それで金光様の真似事だけでもさせて貰おうと言う事になったね。私が4時の御祈念をさせて頂くようになったら、もうこの4時の御祈念はもう静かに静かに私一人でね。じっと御簾の中でもう柏手も打つ暇が無い。私がこのあっこね。こう開けて頂いておる。そこを入っていく時にもう胸がドキドキドキドキするとですよ。もう御神前に座ったら、拍手を打つ暇が無いとですよ。もうそのまま頭下げたらそのままね。私と神様との交流が始まるね。そして約50分、45分から50分、じっと御神前に額づかせて頂く。
ですからこれもうは、皆んながそれを真似せんでもいいね。修行生の方にも言うた。あんた方は5時の御祈念に間に合やあいい。御神飯ももう5時の御祈念に間に合えさえすりゃあいい、今までの通りでいいんだ。ところが明くる日から、もう私の3時50分に出るときにはちょっと御神飯がお供えしてある。修行生の方達がみんなもう出てきておる。修行生だけじゃない、最近はもう総代さん方がみんな出てきておるね。信徒会長なんかはわざわざもう福岡から夫婦で、もうここに座っておるね。
そして私のいわばしん御祈念に、心中祈念をしながら一緒におかげを頂かせてもらう。もう本当にその雰囲気の素晴らしい事ね。うんだからこれはね、私がちょこっと分かり、本当の事になってきたらですね。長女がいや御神飯は、やはり先生が御神前に付かれる前にお供えをさせて頂こう、5時からの御祈念は僕がおかげ頂こうと言うて若先生が5時の御祈念を奉仕するようになった。ほんに御祈念どん出てくりゃ良かけれども、やっぱ思うけれども言わない。
そのいうならだらしの無い姿が私の姿の中にあるから、知っておるからただ神様へ祈って詫びるだけ。そういう信心が続けられておったら、そのような事に段々おかげを頂いてきた。成程本当に親が改まりゃあ子供がおかげを頂くと言う事がですね。目の当たりにこう実証されてきた。それを見たり聞いたりしておったら、みなさんがなるほど成程と合点がいくでしょう。こりゃあ子供じゃない、家内じゃない主人じゃない、周囲の何かにじゃない、問題は中心はこれなんだとね。
昨日一昨日が、親教会の霊祭でした。あちらへ参りましたら、今度あちらの4番目の、息子さんであります正昭先生が、今度結婚をされる。それで正式にご案内を受けた。そこで私は早速その事を帰ってお届け帳に届けさせて頂いて御神前にその事を、どうぞその結婚がスムーズにおかげを頂かれてね。ゆくゆくは鳥栖の教会長にもなられることであろう、おかげを受けられるようにと言う事を一生懸命お願いさせて頂いた。
私はそういうところが信心は大事だと思いますね。結婚式の案内を受けた。ああこりゃまたはなむけがいる、またお酒一本ももっていかにゃん。だってお付き合いじゃけん仕方が無い。これでは折角お酒一本が死んでしまうのですよ。折角の千円なら千円のはなむけが死んでしまうのですよ。これじゃ最近言われている還元にならんのですよね。そこで信心する者は何事にも信心になれよと仰るね。何事にも信心にならせて頂いたら、例えばそういう誰々がいついつは結婚式だと聞いて、案内まで受けたらです、その人のことを祈らなければおられんのであるね。
その新郎新婦の方達のことをお祈りさせていただきおったらね。あれは何て言うでしょうかね、あのテーブルスピーチか何かって言うでしょう。結婚式の時にね。一言ずつこう祝辞を述べるわけですね。祝いの言葉を述べる。そう言う様な感じでいろいろと頂く。野も山も春の装い花は咲き乱れる、小鳥は鳴きさえずっておる。まるきりその新郎新婦のために、その天地が祝福をしておられるかのようにあるね。
ここまでは信心があっても無かっても、本当に私たちを祝福してくれておるのであるように感じるのでございますけれども、実をいうたらそれよりももっともっと深ーい祝福がある。願いがあるね。私はその時に、あのわかめを頂いた。わかめというのは海の底にこう生えるもの。いうなら日の目を見ないもの、でもやはり春の息吹を海の底で感じ取っておる。春にもなれば青々としたあのわかめが海の底で生えていきよる。そこは私共では分からない。人間の目では分からない。
そういう中にね、神の祝福がある事をお互い夢忘れてはならないのだね。春の日差しにも似たね。それこそ甘いムードの時だけではないのだ。必ず結婚生活の中には、ほんにこげな奴とどうして一緒になったじゃろうかという時もあろう。また夫婦でそれを耐えていかなければならない難儀な問題もあろう。そういう時にですその事をですね。神様のお心と悟らしてもろうてそれを受けぬかせて頂くこそが、本当の神様の祝福を祝福として受けさせていただくのだね。
どうぞこれからは、春のような暖かい日ばかりは続くまい。それこそ炎天の焼けるような夏の日もあろう。又は冬の雪の朝もあろう、霜の朝もまたあろう。そういう中にあってもね。どうぞ二人の方達がしっかり結ばれて、おかげを頂いていかれるならば、いよいよ末広がりのおかげが受けられるであろうというて頂いたお知らせが、8の字であった。しかも8の字が横に書いてあった。ははあこれはどういうて神様は横に下さるじゃろうか、縦に下さりゃよかとばってん。
8の字すぐわかる。ははあこりゃ丸かっとが二つついとるけん、こりゃ夫婦のこっちゃろうつながっとる。だからこれが離れちゃならんちゅうことじゃろう。この輪と輪が繋がとらにゃいかんちゅうことじゃろう。こりゃ寝てから繋がることだけじゃなかろう。いや私はそげん思うたじゃん。寝とるもんじゃけん8の字が。(笑)そこが無学の悲しさじゃんね。けれどもそれもしかし嘘ではない。そして私は8の字はまた漢字で書けば、こう、末広になるね。
それこそ私はこうやって8の字がこうやってよじれとるから、もうそれこそ腹がよじれるような、いわば、腹の立つような情けないような思いをする事もあろうけれども、そういう時に決してへこたれてはならないぞ。その時こそが一番大事な時ぞ。そこんところがそういう風に受けられていく時に、初めてこの八の字の末広がりのおかげが受けられるのというようなです、私にもし祝辞を述べてくれと言うなら、私が神様から頂いたその通りの事を述べるであろうと私は思うた。
そしてその事を皆さんに聞いてもろうたね。そしたら一番あの委員長がここで夫婦でお届けに来てからです、先生もう本当恐れ入りました。先生が横の横8を頂きなさったちいうが、先生あの横8というのは、何か科学の記号である、科学の学問する時の何かの記号である。何かじゃないそれがあの無限大という記号であると言う事を聞いた。私はもういよいよ私自身が恐れ入った。お互いがその無尽蔵のおかげに繋がりたい。無限大のおかげを受けたい。
受けたいならばです、私共の信心生活の中にあって、もうこれだけはもうもう持てんちゅうような事があるけれどね。そこがよじれるような思いをするようなこともあるけれども、ここをですね。ここを御神意として有り難く受けさせて頂く信心が、その修行ができるならば、必ずや無限大のおかげに繋がる、御徳に繋がる事ができるのだ。と言う事を私は分からせて頂いた。皆さん私がそれで、皆さんに私が言うんですよ。
あなた方はもう本当に朝の御理解やっぱり、朝の御理解に限らないのだけども、御理解ばただ聞いただけじゃでけんよっち、もう聞いただけ聞いただけでもうそれば、本当に本当にそうだと思わず、それを本当に行じないなら、あんただんバチかぶるよっち私は申しましたね。それこそ神様が知恵を絞って私共のような分からない者にでも、分からせて下さろうとする、その神様のお心を一つ悟らにゃいかんのですね。
そして私がです本当にいわば家のお父さんが変わられた、家のお母さんがこの頃変わんなさったとね。そこにいわば、変わった者についていかなければおられんのであるね。ところがです、このよじれるような思いをする時にですね。私共がおかげの頂けれる道というのが御取次なのであるね。どのような難儀な問題でも赤裸々に、御取次を頂いて、そこに御取次の御ひれいがあるね。私共の心の上に、自分の持ち場持ち場の現場においてそれが現われてくる。
信心はできんけれども、そこんところの辛抱ができる。そしてそれの有り難いと言う事訳が分からせてもらえれるね。そう言う様な例えばこうやって日々にお互いが御理解を頂いておると言う事は、神の声は聞こえずとも、神の姿は見えなくとも、御霊の世界がそれはあるやら無いやら分からんに致しましてもね。なるほどあれは神の知恵だ、あれは神様がおられる証拠だと言う様なものを御理解の中から分からせてもらい、それを自分の物にしていくところの楽しみが、私は信心生活であるとこう思う。
しかも限りなく無限大に。私共がそのおかげをいただいていくために、いかに日参が、いや、朝参りが大事かと言う事をです、だから朝参りが出来ない人は、最近はそのもうお参りが出来ないね。ここに自動車さえあれば、という人達がここに7、8人ぐらいは、もう朝の御祈念を自分の自宅で頂いておる。御初穂をちゃんと奉って、そして御祈念をしておるという人達が7、8人はある。だからそれを私が毎日、もうお取次あのお届けをさせてもらうね。だからせめてそのようなところからでもです。
どうぞ本当にお参りができるようなお繰り合わせを頂ける事を願いとしなければならない。願いもせずもうこれでよい、これですんだような思い方の中にはもう、お互いの信心はとどまっておるね。これほど信心するのに、どうしてこの様な事が起こってくるであろうかと思うたら信心はもうとどまっておる。これはまだ私の信心が足りぬからだと一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられると仰られるね。よじれるような思いをするとき、苦しい思いをするとき、損をかけられるときね。
馬鹿のようにアホのように言われたりする時、そういう時にはです、これはまあだ私の信心が足りぬからだと思うて一段と信心を進めていかにゃいかんですね。その一段と信心を進める、そこからおかげか受けられるね。それはいわゆるこの横8の信心ができるからおかげになってくるのであるね。皆さんがこうやってここで御理解を頂いて下さると、なるほど神様は分からんけれども、神の声は聞けないけれども、御霊様の姿は拝めないけれども、親先生のお話ならあるあの、あの声を神の声と聞き。
あの話を神様の神語りと聞かせて頂いておかげを頂いていくならば、いよいよそこに神を実証する事のできれるおかげが、同時に信念が培われてくる事を私は確信致します。どうぞ御霊様のお祭を境に、御霊様のお祭りというのは、普通のお祭とは違う。もういうならば一番自分に身近いお祭なのであるね。この御霊がいきいきとして、こなかったらこれすらが枯れて来る様な感じがするね。
根を大事にしなければならない、しかも親だ子だという一番身近なお祭なのである。ですからこのところをですね、本当に皆さんが分からせて頂いて、いよいよ先祖の御霊を大事にされるところの、まあ思想がというのじゃなくてですよね、日本はもう古来からそう言う様な先祖を大事にするという、麗しいいわば思想があるわけなんですけれども、それだけではいかん。
やはり自分が実感する所のものでなからなきゃいかんね。それこそ生ける御霊様、生ける人に使えるような、私は心情心が必要であるとこう思う。お爺ちゃんが辛いものが好きだったから、あの子は甘いものが好きであったから、と思いを込めての私はお祭りになってくる時に、御霊のお祭りがいきいきとしてくる、又そこに御霊の感動がまたこちらに通うてこない事もない。そういうおかげを頂いていきたいと思うのでございます。
どうぞ。